2015/07/06

Luzia Homem (1987)

直訳すると男ルズィーア、男勝りのルズィーアぐらいの意味。昔ブラジルの映画館で見たが、タイトルはHomem Luziaだと勘違いしていた。今度英語字幕つきの動画をYouTubeで見つけて見直すことができた。Luzia Homem

ブラジル南部の内陸で皮なめし業を営む夫婦とその1人娘の幼いルズィーアのところに、いきさつはわからないが武装した牧夫数人が押しかけてきて妻を射殺し夫を馬に括り付けてさらってしまう。そこへ来合わせた親戚の男がルズィーアを自分の家に連れて行き牧場の仕事一切と銃の扱いを教える。彼は下手人が遠くない牧場「カンポ・レアル」の者たちであることを知っていた。何年か旱魃が続き彼は家畜全てを失い病に倒れ、ルズィーアに海に連れて行ってくれと頼むがカンポ・レアルの門前でこと切れる。親の仇を討ちたい彼女の心を知っていた彼は仇討は忘れろ海岸に行けと言い残すが彼女は彼を葬った後カンポ・レアルに入っていく。

その日牧場主のラウリーノは米国留学から帰った弟のアレシャンドレを迎えて牧夫たちの競技会を催していた。落馬した牧夫に代わって飛び入りしたルズィーアは見事に牛の尾を掴んで引き倒し喝采を浴びる。腕利きの牧夫で牧場主の妹テレーザの愛人であるトルカートはそのまま立ち去ろうとする彼女を観覧席に連れて行き牧場主らに引き合わせ、彼女はカンポ・レアルで仕事につくことになる。しかしラウリーノの腹心で殺人など汚れ仕事を担当する牧夫クラピウーノを含めて男たち皆が彼女に野心を持ったため牧場の人間関係が壊れていく。

トルカートがルズィーアに好意を示したため嫉妬に駆られたテレーザがルズィーアに嫌がらせをし、兄に彼女を牧場から追い出すよう言うが下心のある兄は拒否する。トルカートはそれを見てテレーザに嫌気がさして顔を見たくないと言い、ラウリーノとも言い合いをしてカンポ・レアルを辞めてよそに行こうとする。ラウリーノは彼を殺させる。地方の司直は牧場に捜査の手を入れようとしてそれを拒むラウリーノと対立する。神父やテレーザの夫などの名士たちも。愛人を殺され孤独を感じるテレーザはルズィーアに接近して友達になってくれと頼む。彼女がいわれのない贈り物を拒むので、その黒髪を売ってくれ、代わりにドレスを買ってやるし髪は切る必要はないと持ちかけ、ドレスは要らないがライフルが欲しいと言われて引き受け、ドレスもおまけにつけてやる。ルズィーアは親の仇がクラピウーノだと目星をつけていた。

アレシャンドレは牧場内にある鉱物資源の露頭を採掘する計画を立て米国の友人で鉱山技師を招くが、ラウリーノは弟が催した歓迎パーティに大勢の名士が集まったのが快からず、また彼がルズィーアの心を射止めそうなのと牧場内で爆破だの大型建機を持ち込む採掘を嫌ってある日技師たちに向かい銃を乱射し追い払い、アレシャンドレと殴り合いの喧嘩をした末負けて泣く。ルズィーアはとうとうクラピウーノを待ち伏せして問い詰めたうえ馬から撃ち落とし、長いナイフで滅多刺しに刺し殺す。本懐を遂げたルズィーアは滅茶滅茶になった牧場を後にし、夜通し東に馬(誰の?)を駆って海岸に出、白いドレスを着込んで海に歩み入り一人悦に入る。おしまい。

IMDBの評価は7/10で高くない。単にブラジル南部の牧夫風俗や主演女優の魅力くらいしか取り柄がないからだと思う。

2015/06/17

Ganito kami noon, paano kayo ngayon (1976)

Ganito kami noon, paano kayo ngayon?

英語版Wikipedia によれば「かつて我々はこうだった。今はどうだろうか?」の意。邦題は「われらフィリピン人」で、'80年代に日本のTVでも日本語字幕で放映された。植民地支配者がスペインから米国に移る時代を背景とし、タガログ人もビサヤ人もクリオーリョも華僑もみんなフィリピン国民なのだというメッセージを持った明るい物語だったと思う。
その時タガログ語の会話の中にスペイン語が混ざっていることに気がついた。つい最近偶然にYouTubeで字幕のないこの映画のプレイリストを見つけた。
Ganito kami noon, paano kayo ngayon?
今みると権力者や聖職者の間の会話はスペイン語丸出しだ。これをフィリピン人はそのまま理解できるのだろうか。しかし農民や兵隊など庶民の台詞はほぼ全く自分には理解できないから筋書きもろくにわからない。なんとか英語字幕でいいからまた見たい。輸入DVDは売っているしPCにドライブもあるんだけど未だかつてDVDは買ったことも借りたこともないんだよね。